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Program Note

ショパン作曲 ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 Op.58

 

F.F.Chopin / フレデリック・フランチシェク・ショパン 1810-1849 
ショパンはピアノの詩人と呼ばれる。6歳からピアノを始め、8歳で神童と呼ばれた。
12歳には音楽院にて演奏、理論、作曲を学び、以降は独自で作曲に専念。
20歳の時、ウィーンにて祖国の悲報を手にするが、病弱で軍隊に入れなかったショパンは、愛国心をピアノに託した。
パリにて、ポーランドに好意を寄せるフランスの社交界と、リストによる発掘と惜しみない紹介で、繊細な気品ある演奏はたちまち話題になり、名演奏家として歓迎された。

やがて、革新的な新境地を開拓し、音楽の世界に君臨したショパンは女流作家、ジョルジュ・サンドと恋に落ち、生活を共にしたマジョルカ島で【雨だれ】等、多くの名曲を残す。しかし、華やかな社交界を好むサンドと1人の静けさを愛するショパンが合うはずも無かった。
ひたむきな創作とは裏腹に、病状はますます悪化し、一時的に回復してイギリスへ演奏旅行へ出るものの、それが反って死期を早めてしまった。現在も、彼の心臓はワルシャワの教会に収められている。【ピアノソナタ第3番作品58】は、サンドと暮らす中で作曲された。ソナタ形式として見ると、ショパンの作品中、最高位と評され、大変な技巧を要する難曲である。

 

第1楽章は、朝もやの憂いを帯びた重々しい様子で始まり、やがて霧が晴れる様に、美しい花園が展開する。
第2楽章は、軽快ながら気品を保った、か弱く可憐な様子。
第3楽章は、サンドとの甘い恋の語らいと言われ、重苦しい現実の後で、輝く光の様な旋律が続く。
第4楽章は、ロンド形式。ほとばしる情熱が烈火し、華麗を極める。

ムソルグスキー作曲 展覧会の絵

 

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー 1839年3月21日 - 1881年3月28日  

( Моде́ст Петро́вич Му́соргский :Modest Petrovich Mussorgsky)

ロシアの作曲家で、「ロシア五人組」の一人。

地主階級に生まれるが、一家の荘園の半分を没収されるという憂き目に会う。武官を志したが、ペテルブルクで下級官吏として生計を立てつつ、作曲活動を行った。作曲はバラキレフのもとで学んでいる。

現代芸術や現代科学の書物を読み、議論を交わすうち、段々とリアリズムという理念を抱くようになり、社会の低層に関心を寄せた。再現やシンメトリーのある楽式を拒否し、「現実生活」の繰り返しのない、予測のつかない流れに十分に忠実であろうとした。

母親の死後、徐々にアルコール依存症がひどくなり、それによる狂気も見受けられるようになる。

 

1873年、友人の挿絵画家ヴィクトル・ハルトマンが39歳の若さで動脈瘤で夭逝した。ムソルグスキーはそのことに大変ショックを受けたといわれる。翌年、スターソフらによって彼の遺作展が開かれ、400点近い作品が展示された。これは残された家族の生計を助けるために計画されたという。これを訪れたムソルグスキーは大変興奮し、そのインスピレーションから僅か3週間という短い期間で「展覧会の絵」を完成させた。

10曲の標題音楽と、作品から作品へと歩を進める作曲者自身の心象を描写した「プロムナード」(同一テーマの変奏、全6曲)を所々挟んでいる。10曲中6曲しかハルトマンの原画が残っていない(もしくは特定されていない)ため不明な点も多いが、ハルトマンの繊細で精緻な挿絵と、生き生きと躍動感に溢れたムソルグスキーの音楽の間には大きな飛躍があり、作曲家の想像力に驚かされる。

なお、この作品は作曲者の死後、リムスキー=コルサコフが発見し、当初はコルサコフによる改訂版が出版された。またその改訂版に基いてラヴェルが管弦楽に編曲している。

 

第1プロムナード  変ロ長調

1  小人(グノーム) 変ホ短調

第2プロムナード  変イ長調

2  古城 嬰ト短調

第3プロムナード  ロ長調

3  テュイルリーの庭 - 遊びの後の子供たちの口げんか  ロ長調

4  ビドロ(牛車) 嬰ト短調

第4プロムナード  ニ短調

5  卵の殻をつけた雛の踊り  ヘ長調

6  サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ  変ロ短調

第5プロムナード   変ロ長調

7  リモージュの市場  変ホ長調

8  カタコンベ - ローマ時代の墓  イ短調

死せる言葉による死者への呼びかけ (第6プロムナード) ロ短調

9  鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー  イ短調

10  キエフの大門  変ホ長調

モーツァルト作曲 4手のピアノ・ソナタ KV521

 

W.A.Mozart 1756~1791
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト

 

ザルツブルグに生まれ、3歳のときに音楽を始め、4歳でチェンバロを弾き、5歳には作曲と神童ぶりを発揮。
6歳には、研鑽とお披露目を兼ねて、バイオリニストの父とヨーロッパ各地を旅してまわった。

 

6歳では、ミュンヘンと音楽の都ウィーン、7~10歳はパリとロンドン。
11歳~13歳は、再びウィーンを訪れて、オペラ【ラ・フィンタ・センプリーチェ】を上演し、絶賛を浴びたものの、
21歳の時に向かったパリでは、成功を収めることができなかった。

 

22歳の時に母親を亡くし、失恋も経験と不幸が続くが、25歳の時、ウィーンに移り住み、宮廷楽団に勤め、間もなく、フリーに転身。オペラの作曲、楽譜の出版に携わって人気を博し、とりわけ、ピアニストとしての地位を確固たるものにした。
富に恵まれ、父の反対を押し切って、下宿屋の娘、コンスタンツェと結婚、6人の子供をもうけ、幸せな日々が続いた。
コンスタンツツェは22歳の時に失恋したアロイジアの妹だった。

 

29歳の時、ハイドンから絶賛を受けて、31歳の時に【フィガロの結婚】を作曲。

この頃からギャンブルや飲酒にのめりこむようになり、借金を申し込む手紙が頻繁となり、35歳の時、【レクイエム】の作曲中に亡くなった。

 

なぜ、モーツァルトの作品の多くは長調なのでしょうか?

それは、当時の音楽家が、自分の意志によるものでなく依頼が中心で、人気の流行がロココ様式やギャラントと言った長調の曲風だったからで、【4手のためのピアノ・ソナタ ハ長調作品521】は、1787年、モーツァルトが31歳の時に、ウィーンにて友人の妹と演奏するために作曲された。

自作目録には、父の逝去の次の日となっているが、モーツァルト自身はそのことを知らずに、作曲に専念していたという。

第1楽章アレグロは、ソナタ形式、第二楽章アンダンテは三部形式、第三楽章アレグレットは、ロンド形式。

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